(本編から数ヶ月後のマルコと貴公子です。捏造たくさん。なんでも許せる人向け)
メトロ・マニラは午後三時だ。雨季の終わり、パコ公園の小高いヤシの梢は昼過ぎの通り雨の雫をまだ纏っている。サン・ルナ通りの五叉路にすっくとそびえたバスケットゴールの網もどこか重たげだ。ボールの取り合いに興じる少年たちのサンダルが湿った砂埃を舞い上げ、だが彼らの指先を縫い足元を抜けながら荒れたコンクリートの地面を弾むボールは乾いている。 マルコは斜めがけにした黒いスポーツバッグを歩道側に、車道側にC2のアップルグリーンティーのボトルを掴んだ左腕をぶら下げて、五叉路を海風の吹いてくる方へと曲がった。モルタルとトタンでできた住宅密集地をほんの二ブロック先へ進み、パコ公園の裏手へ出ると、高架鉄道の向こう側にマラテのタワーマンションがつやつやとした石の壁のように立ちすくんでいるのが見える。マルコはそこでしばし立ち止まって、昔住んでいた家からも遥か遠くにあのマンションが見えていたことを思い出し、それは雨漏りする屋根の上からの眺めだったことに気づき、それから家とマンションの間にあるのは鉄道線路ではなく川だったことを考える。 川のこちら側で、マルコはりんご風味の甘い緑茶飲料を飲むようになり、ノートパソコンを持って週末学校へ通い始め、三階建ての小綺麗なタウンハウスに住んで、試験勉強の夜食に母の焼くビビンカを食べるようになった。健やかだったころ、彼女は息子のために菓子を作るのが好きだった。小さく切り分けられた米粉のココナッツケーキの味は懐かしく、それが焼きたてではなくて冷蔵庫に仕舞われており、チーズを自分で載せて電子レンジで温めることだけが新鮮だった。 母の手術後の経過はありふれて順調だ。二ヶ月の術後入院を経て予定通りに退院すると、彼女は週二日のリハビリに意欲的に通い始めた。 彼女が入院していた二ヶ月の間の出来事をマルコは奇妙な夢のように思い出すことがある。 くだんの孤児院長から当面の住まいにと渡されたのは、マカティのきらびやかな商業地区に建ち並ぶコンドミニアムの一室の鍵だった。そんなこととはつゆ知らず、教えられた住所へと少ない荷物を積み込んだタクシーを回してもらった先で、マルコは唖然とした。顔も知らないままの父親の国で出くわしたとんでもない出来事の数々が頭をよぎりもした。あの胸糞の悪い連中はいかにもこういう門の奥に住んでいた。 エントランスのコンシェルジュは親切で、タクシーの運転手から荷物を引き継ぐと、六基あるエレベーターを鮮やかに手繰り寄せて、五十四階の角部屋まで案内してくれた。北西と南西の二面がガラス張りのリビングダイニングには眩しいほどの光があふれ、真っ白なフローリングに澄ました風合いの家具がいくつか、マルコよりよほど主人面をして並んでいた。そして家具ばかりか、広々としたキッチンカウンターの向こうから実際に部屋の主人がこう言うのだ──やあ、マルコ。遅かったな。喉は乾いていないか? 彼はいまだに自分の本当の名前さえ教えてくれないというのに、マルコが一人でドアを三つ開けても見つけられなかった寝室の場所は教えてくれて、それから二ヶ月の間、週に一度かならず「寂しいだろうから」という理由までつけて五十四階の角部屋を訪れた。夕方だったり、夜明け近くだったり、手土産があったりなかったりした。バングラデシュの特産だという刺繍の小さなぬいぐるみを持って明け方に尋ねて来たり、マルコが酒を飲まないと知っていて随分遅くにアルメニアのアララト・コニャックのびんを持って来たこともあった。 マカティの丘の上の五十四階からの夜景は美しかったが、北西の窓からかつて自分が住んでいたあたりに目を凝らすと、そこにぽっかりと暗い穴が空いている心地がした。メトロ・マニラの夜は溢れる光の海に暗がりのあぶくが無数に浮かぶ大きな水たまりのようだった。あぶくの一つ一つに、マルコがついこの前まで喉まで浸かって溺れ死にかけていたのと同じ暮らしがあり、水たまりの中で光とけっして混じり合うことはないのだ。 このブランデーはね、と彼は少しだけ酔いの回った舌で言う。一九〇〇年のパリ国際博覧会で行われたコニャックのブラインドテイスティングコンテストでグランプリを獲ったんだ。本場の「コニャック」たちを差し置いてね。するとパリの連中はどうしたと思う? 彼の目に挑戦的な光が宿り、マルコは困惑する。 ルールの方を変えて、一度は与えたコニャックの名前をアルメニアから永久に奪った。 彼はフンと鼻を鳴らし、つまんでいた干し葡萄の枝をテーブルの上の皿へ投げ入れた。彼の怒りに満ちた世界史の授業はそれからもう少し続く。アララトは今はトルコ領だが、かつてこの山の周りには多くのアルメニア人が住んでいた……。 マルコは小鳥の形をした刺繍のぬいぐるみを窓際に置いて時折いっしょに夜景を眺めたが、彼は決して窓の外を見下ろそうとしなかった。窓際に立ってさえ、しみじみとマルコの目を覗き込んでまた一週間の別れを惜しんだ。 いったい何が見えているのだろうとよくマルコは思ったものだった。いったい何をそんなふうに、懐かしげに、手で触れるのも惜しいという顔つきで、見ているのだろう。 エルミタの端、パコ地区との境にほど近いアゴンチッロ通りにまるで四つ子のようにそっくり四軒立ち並ぶ三階建ての分譲住宅は、大人の背丈よりも高いスチール柵のゲートで歩道から隔てられている。マルコはポケットから取り出した電子キーでゲートを開け、手前から二軒目の家の玄関ポーチへと滑り込んだ。 ポーチの前に広く取ってある駐車スペースを空っぽのままにしているのはマルコの家だけだった。自分の家に出入りするたび、マルコはちょっとだけそのことを気にかけて居心地の悪い思いをした。車が必要とも欲しいとも思っていないのに、ガレージだけは各家に二台分もあるのだ。がらんとしたガレージの灰色のタイルに土埃が溜まらないよう掃除をするだけでも骨が折れる。それからこの家の一階部分にはメイド用の小さな部屋があって、さらに言うならその部屋とメイド用のトイレと洗濯室しかないので、マルコはなんとなくまた落ち着かない気持ちでいつも一階を素早く通り抜けるのだった。 二階に上がるとまず廊下があり、廊下の先にキッチンとダイニングがある。廊下に面したドアの一つは母の寝室で、何かあっても声が通るようにとドアはいつも開けっぱなしだ。母は今日、リハビリ通院へ出掛けていて、迎えに行くにはまだ小一時間ほど早い。 マルコはダイニングテーブルの椅子に荷物を置くと、キッチンで手を洗ってから、いそいそと大きな冷蔵庫の扉を開けた。切り分けられたビビンカを大皿から一つ取って、ピザ用チーズの大袋の中身を少し載せて、電子レンジへ。一分待ってテーブルへ運び、飲み残しのアップルグリーンティーを隣に並べ、席についてスポーツバッグのジッパーを開く。本が二冊。図書館で借りた『アルメニア人の歴史』か、それとも『高校二年間丸ごと英文法』か。少し迷って、図書館のラベルの方に手を伸ばす。ちょうど面白いところだったのだ。借りている本は早く読むに越したことはない。読み物に没頭したい気分でもある。言い訳も何もかも忘れて。 このタウンハウスに引っ越してきたのは、母の退院からすぐのことだ。母は二晩ほどマカティのコンドミニアムの五十四階で過ごしてみて、ここは大変なところね、とため息をついた。まったくだと思った。 半月でこの家を見つけることができたのは幸運だった。メトロ・マニラの住宅価格は右肩上がりだし、分譲住宅型のタウンハウスは数が少ない。母の通院する病院の近くに土と木に囲まれた都合の良い住居が見つかったのはとてもラッキーだった。金だけではどうにかならないこともある。 「それをどうにかしようとすると……ああなるわけだ」 彼は太陽の反対側をゆっくりと指差して、肩をすくめた。マルコも肩をすくめ、バスケットゴールから上がった歓声に目線を向けた。 五叉路の作る小さな三角形の土地を囲むように白線が引かれただけの遊び場だ。通るたびに誰かがボールを取り合ってゴールを決めるだけのゲームに興じている。今日は四人の子供たちが玉入れ遊びをしていて、中でもひときわ背丈の低い少年が巧みにボールを扱うので目を引く。自分よりずっと体格の良い相手をかわしてゴールを狙いに行き、幾度も失敗するのだが、決まるときは見事だ。 「すごいな、ぼくはああいうのは苦手だった。でも懐かしいね。お前は?」 「ボクシングの方がいい」 「分かるよ、一匹狼タイプだ」 彼がさも嬉しそうに頷くので、マルコはどことなく気恥ずかしい思いをする。 午後三時、タマリンドの木陰で彼は額にうっすらと汗をかいていた。この国の太陽の下ではきらきらと光りすぎているシルクのタイは涼やかなターコイズブルーで、少し身じろぎすると細かな槌目の刻まれた銀色のタイピンが見え隠れする。ストローを突っ込んだアメリカ製の炭酸飲料に頻りと口をつける仕草は見慣れたものなのに、その上唇の端に見慣れない傷跡が増えている。 スパイのような仕事なんだろう、とマルコは彼について思っている。スパイの仕事もよく知っているわけではないが、転居先を教えてもいないのに週末学校の帰りにサン・ルイ通りのバスケットゴールの前に彼の姿を見つけたからには、そう思わざるを得なかった。人のあとをこっそりつけ回したり、住んでいるところを調べ上げて近づいたり、その挙句にどうするかだけがスパイとの違いなんだろう。だがいったい、スパイにしろスパイのような仕事にしろ、どうやって就くものなのか? もらったお金に頼っていつまでも暮らせるわけではない。週末学校を修了して試験に合格できたら、どんな職業に就けるものか、マルコは随分考えるようになった。高卒認定が手に入れば選択肢は一気に広がる。世の中にはどうやら無数に仕事の種類がある。出会いきれない数の人間がこの世にいるのと同じように、仕事にも出会いきれないのだろうという感じがする。たまたま身近に出会した人間の仕事がスパイのようなものだったから、就職、スパイ、と検索窓に打ち込んでみて消したこともある。別にスパイになりたいわけじゃない。スパイみたいな仕事も願い下げだ。でも、何になりたいのかはよくわからないままでいる。 「ところでマルコ、中間試験の結果はどうだった?」 彼は唐突にそう言って、腕組みをしながらマルコの方へ体を向けた。 「良い成績を取らないと、良い大学へ行けないぞ」 そんな台詞を誦じて見せて返事も聞かないうちから満足そうにする。彼はどうもテレビドラマで見るような親戚のおじさんの仕草を真似ているらしかった。 「大学に行くつもりはないけど、成績は悪くなかった」 「そうなのか」 大学に行かない親戚の子供も、成績の悪くない親戚の子供も、彼の台本の中には登場しないようだ。拍子抜けした顔つきでコーラを啜り、ふうん、とうなった。 「あんたは? 最近どうしてんの」 「うーん。守秘義務があるとだけ言っておこう。でも嬉しいね、お前がそんなことを聞いてくれるとは」 彼がどうしているのか、気にかけている。そう認めざるを得ないとマルコは思う。名前すら教えてくれない男のことを気にかけて、気にも留めていないふりをするのを諦め始めている。 「お前にはどんなふうに見えてるんだろうなあ」 彼は丁寧に折り畳まれたハンカチで軽く汗を押さえ、時計を気にする。 「何が?」 「そうだな、たとえば……ぼくとか」 マルコは困惑して彼を見つめる。 「何が見える?」 そう聞きたいのは自分の方なのに、そうは言い返せずに言葉に詰まる。いったい何をそんなふうに、懐かしげに、手で触れるのも惜しいという顔つきで見ているのか。今日はよりいっそう、夢でも見ているように、昔見た夢を覗き込むように、そうだ、名前はおろか彼の歳さえもマルコは知らない。 「残念、時間だ」 ちっとも残念がってる様子もなく彼は時計の風防を指先で叩き、ハンカチを胸元に仕舞い込んだ。 「これが最後かも分からないからな。友達としていちおう言っておくよ。さようなら、マルコ」 唐突にマルコは苛立ちの理由に気づく。それを投げかけようとして、彼が踵を返す方が早い。背中に投げかける言葉ではないと思って飲み込む。 ──さようならだって? まだ何も話してくれていないのに。 フィリピンの代替教育制度を実施している週末学校には、さまざまな背景を抱えた多様な年齢の生徒が集まっている。マルコの通うクラスには、小学校を中退して以来何年も路上でタバコ売りをしていた少女もいたし、最年長は五十代の男性でA&Eテストと呼ばれる高卒資格認定試験のために誰よりも熱心に勉強していた。 テオドロという名前の二十歳の青年とは、何度か隣り合って授業を受けたことをきっかけにときどき話すようになった。経済的な問題で高校を中退したあと工場労働をしていたが、五年目にして一念発起し、大学進学を目指しているのだと言っていた。 マルコは自分の事情をどう話したものかためらった。母の病気と治療のために進学を諦めたと言うと、テオドロはたいそう同情してくれた。幸い最近になって事情は落ち着いたのだが、やはり勉強はしておきたいと思って、とそう話す自分の声が少し離れたところから聞こえるようだった。 「やっぱり大学を目指すのかい」 「どうかな……」 「せっかく成績が良いのに?」 「きみみたいにやりたいことがはっきりしているわけでもないし」 テオドロは笑って重たげなバックパックを背負い直した。 「大卒の給料は魅力的だよ! もう金に困りたくないんだ」 マルコはボクシングリングの上でさえ食らったことのない鉛のような一発を感じて思わず足を止めた。ちょうどサン・ルナとロマオルデスのぶつかる曲がり角だった。テオドロはロマオルデスを南へ歩き去りながら、マルコに向かって片手を挙げた。 「じゃあな、マルコ。また来週会おう」 頷き返したか、手を挙げて返したか、分からないまま家路を歩いた。 午後三時半、五叉路の角地に立ちすくむバスケットゴールの下には人影がなかった。今度は自分の意思で立ち止まって辺りを見回した。売り物のココナッツを山と積んだ台車を引く中年の女性が一人ビーチの方へ歩いて行くだけで、子供の姿も、シルクのタイを締めた男の姿もなかった。ほんのわずかに待った。だが誰も現れなかった。 マルコはパコ公園の裏手へ向かって歩き始めたが、海風の運んできた砂が靴の中いっぱいに詰まっている心地がした。高架鉄道の向こうには霞がかかり、マラテのタワーマンションは蜃気楼のようだった。四棟並んだ三階建てのタウンハウスは四つ児の巨人に見えた。背の高いゲートの上からマルコを覗き込み、ぴったりと巨体を寄せ合って沈黙している怪物だ。マルコは顔を伏せ、ほとんど手探りでゲートを抜けて自分の家の玄関にたどり着いた。よそよそしいグラウンドフロアから二階へ続く階段を目を瞑って上った。手すりを掴み、手すりが途切れるところで振り返って、廊下の先へ視線をやった。家の中は電気がついておらず、窓から入る光だけが床を照らしていた。 廊下に面した母の部屋の扉はいつも通り開いていた。マルコはそっと母の部屋を覗き込んだ。母はベッドで休んでいるらしかった。弱々しく絞られたベッドサイドの読書灯が彼女の寝顔をわずかに照らしていた。 寒気がする、とマルコは思う。頭の中に雨が降っていて、耳の中に濁った川の音が聞こえる。あの頃は何もかもがどん底だった。腐った泥の底で足掻いていた。ボウフラの湧いた雨樋に溜まった泥。その臭いがした。 もしかすると彼が死んだのじゃないか、とマルコが思いついたのは、それから二ヶ月が経った頃だった。A&Eテストを受験した帰り道、その思いつきに胸を貫かれて、ほとんど心臓が止まりそうになった。 良い意味で彼は自分を見限った、そういうタイミングが来たのだと考えた方が楽なのは分かっていた。だが死のイメージはマルコの脳裏に貼り付いて剥がすことができず、そしてそれは今に始まったことでもないのだった。 彼が別れの挨拶を丁寧にしていたのは──さようなら、マルコ──いつだってこれが最後かもしれないと匂わせたかったからだ。最後だとはっきり言い切ったことさえあった。彼は死の臭いにまみれた男だった。スパイのような仕事とは曖昧な言い方がすぎる。彼は殺し屋なのだ。 マルコは賭けボクシングに関わる中で、顔見知りの選手が試合相手を殴り殺す場面に遭遇したことがある。俗に言うリング禍だ。その選手は決して人を殺すつもりで試合に挑んだわけではない。リング禍は悲劇的な事故だ。マルコの居た世界は暴力でできていたし、死はそこに潜んではいたが、死が実際に立ち現れるのはつねに偶発的だった。 それがどうだ、殺し屋というのは? 初めて出会ったときから一瞬も途切れることなくずっと、彼は死の臭いをさせていた。その中にマルコは雨樋に溜まった腐った泥の香りを嗅いだ。同じ泥の中を這いずった者の言葉を聞いたのだ。 マルコは枕元の小さなライトだけを点けたベッドの中で、試験会場の入り口で配られていた職業選択パンフレットをめくっている。高卒認定資格だけで就ける職業。大卒で就くことができる職業。賃金の違い。人生設計の違い。殺し屋になる方法はどこにも書いていないし、殺し屋がどんな人生を送るのかも分からない。想像もつかない。 彼がどんなふうに死ぬのか、想像しまいとして目を閉じる。彼がどんなふうに泥の中から血溜まりの中へ踏み出したのか、考えようとする。最初の一歩について。誰かが手を引いたのだろうか。彼がマルコの手を引いたように? 彼はマルコを光の中へ連れ出した。マルコの手を引きながら先を歩く彼の靴が地面を踏むたびにぐしゃぐしゃと濡れた音を立てる。湿った足音と一緒に真っ赤な靴跡を残しながら。 だから初め、マルコは夢を見ているのだと思った。それは週末学校の芸術科目の資料に載っていた夢魔に似ていた。眠る女性の足元に黒黒とした怪物がうずくまっている、あの絵だ。マルコのベッドの足元には怪物ではなく、よく見知ったあの男が座っているのだが、そうとはっきり分かるのが不思議なほど奇妙な様子をしていた。マルコはあんなふうに彼の髪がもつれ形を崩しているのを見たことがなかったし、彼が猫のように背中を丸め、組んだ両手の中へ深い息を吐くのもやはり見たことがなかった。 あんた、帰って来たのか? マルコはそう言ったつもりだったが、喉から声の出てくる気配はなかった。息の流れだけが唇の動きの形に空気をわずかに震わせ、だがそれを彼は聞き取ったらしかった。 「うん……いや、どうだろう。あまりそういう気がしない」 寒さに指先を擦り合わせる仕草をしながら彼は囁き声で答えた。 「ここはお前の家だ。家か……家には長いこと帰っていないな。もうずっと帰っていない」 そう言って手に息を吹きかけて握り込む。寒いのだろうと思う、その瞬間にマルコは自分の体にも凍えるような冷たさを感じる。 「そんなに帰りたい家でもないからね。ここのように清潔でもないし。雨樋に泥が溜まっていてボウフラが沸いているような家だった。川のすぐそばにあって……川というよりゴミ溜めがゆっくり動いているようなものだから、とても嫌な臭いがする。もっとひどい臭いだって、まあ仕事柄いくらでも知っているが、あの川の臭いはもう嗅ぎたくないと思うんだよ」 それに寒い、とマルコは思う。その家は床上までたびたび浸水し、壁はカビだらけで床板は腐っている。錆びた水道管から出る濁った水で洗濯した服はいくら干しても泥の臭いが取れない。雨季になれば天井の雨漏りからも身を守らなければいけない。どの季節も溢れかえった下水の流れ込む川がつねに家の横腹を濡らしている。濡れた家は寒い。凍えるほどに。 彼はまた深々と息を吐いて、ふと顔を上げ、どこか遠くを見るふうに視線を投げる。マルコは自分の寝室の壁の色もカーテンの柄も思い出せない。湿ったシーツから泥の臭いがして、彼の目線の先に雨が降っていることだけが分かる。 「あの家にみんな置いてきた。ああもう何もかも置いてきたよ。お気に入りのおもちゃも、サンダルも、木箱いっぱいに拾い集めたビール瓶の王冠も、ほんの五日ぽっちだけ小鳥を飼った竹籠も。惜しいことはないさ。思い出そうとすればそういうものがあったことは思い出せる。思い出したくても思い出せないものは、そうだな、悲しいものだね。小鳥の名前は忘れてしまったし」 マルコは川の向こうのあの家に置いてきた小さなコップのことを考えている。プラスチックでできた古びた水色のコップには赤い魚の絵が描かれていて、幼いマルコはその魚に名前を付けていた。喃語のような響きの名前をきっとそのうち忘れてしまうだろう。忘れたことさえ忘れて、懐かしむこともなくなるだろう。 「竹籠の中で小鳥が溺れ死んでいるのを見たとき、こんなことばかりだ、と思った」 彼は一瞬押し黙り、そのあとで小さく笑う。 「ぼくには分かってたんだよ、マルコ。あの家であんな場所に鳥籠を置いて、また下水が溢れてきたら鳥が死ぬじゃないかって。二階に連れて行ってやれないのなら、窓枠かどこかに吊ってやるべきだった。大丈夫だなんて思っていなかったよ。死ぬと分かってた」 見知らぬ怒りが彼の横顔を不意に塗りつぶし、それとマルコが理解する前に掻き消える。 「だからあの家にはみんな置いてきた。あの小鳥の歌う声だけは思い出したいと思うことがあるけれど」 彼はあの目でマルコを見ている。懐かしげに、遠く、優しく、手で触れるのも惜しいという目。 「お前はちゃんと大事なものを持ち出してきたね。あの家に捨て置いて来なかった。お前はぼくとは違う。それが良い。だからお前が好きだよ」 マルコは身を捩って体を起こそうとする。だがまるで体の上に本物の夢魔がのしかかっているかのように身動きが取れない。沁み入るような寒さは眠気を誘う重みになって鳩尾から喉へ這い上がってくる。 「おやすみ、マルコ。目が覚めたらきっと良い知らせがある。お前の人生はそういう場所に向かっているんだから」 それなら、前を歩いているあんただってそうじゃなくちゃおかしい。 マルコは声を絞り出そうと冷え切った喉に力を込めた。けれども唇から漏れてきたのは眠りに落ちる寸前の人間が吐き出すのとよく似た長い吐息だけだった。その吐息が終わる前に彼はきっとまた、さようなら、と言う。それでマルコは自分がこの上なく怒っていることに気づく。 今だけはさようならなんて聞きたくない。死ぬ前には、もっとほかに言うべきことがあるはずだ。本当にこれが最後だと思っているのなら。たとえば── たとえば、たった今すでに聞いてしまったいくつもの言葉だとか。 朝はマルコをすっかり置き去りにして窓から出ていくところだった。飛び起きたつもりが全身は鉛のように重く、マルコは冷や汗でじっとりと湿った掛布をのろのろと体から引き剥がした。 掛布を丸め、枕を床へ落とし、シーツの端を掴んで持ち上げながら、ベッドの周りを見回した。何もなかった。寝床を這い出て腰を折り、床のフローリングの溝にまで目を凝らした。何も残っていなかった。すん、と鼻を鳴らして空気の匂いを嗅いだ。ふんわりと甘い、温めたミルクと卵料理の香りがした。 見知らぬ他人の家を歩く心地で二階へ降りた。ダイニングテーブルの上に朝食の用意があって、キッチンには母が小さな丸椅子を出して座り、カウンターに肘をついてチラシのようなものを見ていた。 「あら、おはよう」 母は息子を振り向くとチラシを持ったまま丸椅子を降り、なぜか感慨深そうに両腕を広げかけてやめ、代わりにチラシを両手に持ち直してマルコに差し出した。 「よく寝ていたから起こさなかったけど、良かった。ご覧なさいよ」 マルコは受け取ったそれがチラシではなく、A&Eテストの合格通知であることに気づき、息を呑んだ。 「本当に良かったわねえ。おめでとう、マルコ。何かお祝いをしなくちゃね」 マルコは呑んだ息を吐き出すのも忘れて合格通知書の文面に両目を走らせた。宛名も発行者も、ロゴや、責任者のサインも、すべて本物に見えた。受験者を合格と認定する日付は今日だった。確かに今日は合格発表の日だ。インターネットで試験翌日の正午には合否が確認できる。でも紙の通知書が発表当日の、それも正午前に届けられるのはおかしい。 「これ、いつ届いた?」 「つい今さっき。ちゃんとPHLポストの制服を着た男の人が来て、おめでとうございます、って」 考えが頭の中で像を結ぶよりも早く、マルコは突き飛ばされたように駆け出した。転がり落ちんばかりの勢いで一階の玄関へ駆け降り、サンダルを突っ掛けるのに失敗すると、靴を履くことは諦めた。車の置かれていないガレージスペースの灰色のタイルを裸足の裏で思い切り蹴り、猛獣用の檻のように道路と敷地内を隔てているゲートのスチール柵に飛びついた。PHLポストの制服の青いジャケットを肩に引っ掛けて歩くスーツ姿の男の後ろ姿が遠く目に入った。ゲートを開ける鍵は家の中に置いてきた。柵から手を伸ばしても届くわけもない。呼び止める名前さえ知らない。 「ふざけるなよ!」 マルコは柵を両手で掴み、力いっぱい揺すりながら怒鳴った。 「ちくしょう! 戻って来い! 許さないからな! 戻って来なかったら、絶対に許さないからな!」 彼が振り向くのか振り向かないのか、足を止めるのか止めないのか、涙に滲んで何も見えなくて、悔しさのあまりに嗚咽が込み上げてきた。頭を深く垂れてぜえぜえと咳き込んだ。眼球の真ん中から地面に向かって涙の粒がとめどなく落ちていくのだけはよく見えた。 やがて、乾いてさらりとした大きな手のひらが、柵を掴んだマルコの拳を一つずつ、そっと上から包んだ。それでもマルコは顔を上げなかった。目を閉じて、彼の手のひらがそこにあることに納得しようとした。 彼は長い手指の固くなった指先を使って、丁寧にマルコの拳を柵からほどこうとした。あまりにも強く握りしめたせいで、拳の関節は固く強張り肉にはスチール柵の角が食い込んでいた。そこへやすりのかけられた丸い爪の先を滑り込ませ、あるいは赤く血の色の浮いた肌を指の腹で撫で、そうしながら彼はこう呟いた。 「ごめんよ」 左の拳がほどけた。マルコは柵の隙間に左手を突っ込んで彼の襟首の辺りを掴んだ。彼は意に介さなかった。残った右の拳を両手で包み、どこか辿々しいやり方でさすった。それがこの上なく優しいとマルコは思った。 やがて右手も自由になったとき、マルコは彼を殴ろうとも彼の首を締め上げようとももう思っていなかった。ただ離れて行こうとした彼の手を捕まえて、その手に増えた小さな生傷のいくつかを数え、離したくないとだけ思った。 「友達だろ」 肩口で涙を拭い、彼の顔を真正面から見据えた。 「おれには友達が見える。あんたには違うのか」 「マルコ」 「名前も教えてくれないやつだけど、おれはあんたが死ぬのはいやだし、二度と会えないのもいやだ」 彼は微笑もうとした途中で笑い方をすっかり忘れてしまったような表情をしてマルコを見ていた。形の良い唇がわずかに震えて、マルコの名前を作って、だがもう音にはならなかった。逃がさないようにと必死に捕まえていた彼の手が、ゆっくりとマルコの手を握り返そうとしているのは分かった。それをじっと待った。 「飼ってた小鳥のこと……話してくれただろ。覚えてること教えてくれよ。羽根の色だとか。そしたら見つけてやる。鳥の種類、名前と、歌う声もきっと」 彼は拙い仕草でマルコの右手を引き上げ、胸元へゆっくりと寄せた。そして振り払われはしないと知ると、目元を伏せ、前髪が額へはらはら落ちていくのもそのままに、祈るのとさほど変わらない懸命さでその手の指の付け根に唇を押し付けた。 涙の最後のひと雫が目尻から転がり落ちるのを、マルコは椰子の葉に残った俄雨の残りが日の光にきらめきながら弾けるさまを思い出しながら見送った。ジャケットの襟元を掴むのをやめた左手で、そっと彼の頬に触れた。想像していたよりずっと体温のある肌だった。唇も。唇の隙間からこぼれる吐息も。血の通った温かさが両手の中を通って流れ込んで来る。 自分の手が彼にとって温かくあるように、マルコは願った。少しも冷やしてやりたくなかった。何一つ奪わないで済むように、祈った。 「黄色い鳥だった」 彼はほとんど誰にも聞こえなくても構わないと思っているかのような声音で言った。 「とても小さくて、黄色くて、背中だけが澄んだ池の水底のような緑色だった」 そしてゆっくりとした呼吸をひとつして、顔を上げ、前髪をかき上げながら、一歩後ろへ下がった。唇と吐息の柔らかさがまだ残っている右手からも、彼は離れて行った。 「ありがとう」 マルコは奥歯を食いしばって彼が次にあの言葉を言うのを待った。だがその瞬間は訪れなかった。 彼はたちまちのうちに踵を返し、どことなく浮ついた足取りで歩き始めた。三歩半行ったところで振り返り、軽く手を上げて、さらに五歩行った先でくるりとこちらを振り向いた。 「楽しみにしてるからな!」 マルコは黙って頷いた。それで彼には十分だったらしかった。子供がするように大きく腕を振って、また背中を向け、今度はもう二度と振り返らなかった。 マルコは今日も待っている。 大学へ進学することにした。獣医師を目指すつもりだ。彼の飼っていた小鳥は、フィリピンモズヒタキではないかと思っている。鈴の鳴るような声でさえずるとても小さな黄色い鳥だ。コーネル大学の鳥類学研究所の公開ライブラリでときどきその歌声を聴いている。 マルコは今日も待っている。 彼はまだ戻らない。だがマルコはもう、彼が死んだかも知れないとは思わないし、雨樋に溜まった泥の臭いの記憶に立ち竦むこともない。 生活は多忙を極めている。獣医師を養成するフィリピン大学ロスバニョス校は難関だ。勉強は苦にはならない。疲れたら体を動かし、きちんと眠るようにだけしている。ときどき彼の夢を見ることもある。夢の中の彼はいつも鳥かごのある窓辺で穏やかにうたた寝をしている。 マルコには分かっている。 彼があの目で何を見ていたのか。あの目に映っていた自分が何者だったのか。 今なら分かる。 彼が戻る日、いつかその日、同じ目で彼を見つめるだろうから。
ご覧くださりありがとうございました!
2025.11.8. ゆり塩
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